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1876(明治9)年、アメリカ人のグラハム・ベルが電話を発明…(中略)ベルが発明したといわれる電話機も、実際に発明したのは彼の助手のT.A.ワトソンである。(はてなキーワード)
もう、大爆笑だったんだがwwwやっぱりwww
そう考えると増こうはそのこともふまえてあんなキャラにしたんだろうか・・・!すげぇ!
ついでに暇だったし、腹も痛いから史実をまとめてみる事にスル。
やっぱり一番有名っていうか、悲劇的なのはヒュースケンだな。
アムステルダム生まれのオランダ人で、父は石鹸製造業者のヨアンネス・フランシスクス・ヒュースケン、母はヨアンナ・スミット。
米国に渡り帰化する。1856年(安政3年)に初代総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。1861年1月14日(万延元年12月4日)にプロシア使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去。28歳没。(Wikiより
本当に、涙が出てくるよ・・・!このネタで絵描いたら悲惨な事になったけどね!
っていうかこのネタはまじで「悪ノ~」にぴったりなんだが、はい。すみません。
それと、ハリスのあのインパクトにこだわるアレ。うん。
1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清国に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。(Wiki
このときからペリーみたいなインパクト求めだしたんじゃない?
ついでにこの人、生涯独身だったとか。きっとヒュースケンが死んだからそれ以外の人は(ry
ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。 (Wiki
ショックだったんですねわかりま(ry
下田ではハリスは暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。(Wiki
あのノート使ったんですねわかりま(ry
ハリスの日本人を見る目は好意的で、「喜望峰以東の最も優れた民族」。下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」とそれぞれ日記に称賛気味に書いている。しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳な清教徒であるハリスには耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と呆れている。
ヒュースケンとだったら入ったんですねわかりま(ry
ちなみにヒュースケンは混浴をそういやがらなかったそうな。変態め!(笑
それとこの人、やたら体調崩しやすくて度々吐血とかしてたらしい。それと牛乳好きだったとか。
さあ!交渉組以外も調べてみよう!