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小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。
実際には妹子と太子なんだよ!(コラ
翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
はいせいさあああああん!あ、いやごめん。でもはいせいさんかっこよくない?
ま、みどりんごさんとこの影響なんだが。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。
まじか(@@;)本当は妹子にふられたんじゃ(ry
そんでそれを悲観して自殺したんじゃ(ry
あ、いやごめん。
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。
まって、太子ってエスパー?!まえたけコンビまさかのエスパー!?
太子・・・(笑)恐ろしい子!
皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。
や、優しすぐる!!!
っていうか、「衣を脱いでその人を覆ってやり」って、あのジャージを!?やめてくれ逆に迷惑だ(笑
次!妹子!
『日本書紀』(巻第二十二)によれば、推古15年(607年)、推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子の命により、第2回遣隋使として鞍作福利らと隋に渡る。推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失。(紛失に関しては諸説あり、とても見せることが出来る内容ではなかったからであるとする説もある)
な、無くしちゃったんですね・・・。妹子ドジっこ?
ついでに、妹子ってあの小野小町の先祖ともされている。ってことは、美男子ってことか!イイネー!
京都市の紫雲山頂法寺(本堂の名から通称「六角堂」)の本坊にあたる池坊(聖徳太子が沐浴した池(泉)にちなんだ名)の僧侶は六角堂の本尊如意輪観音に花を供えていた。池坊の始祖は小野妹子と伝えられることから、小野妹子は華道の祖とされることがある。
ハッΣ(゜Д゜)
太子が死んだ後も妹子は花を供えてでもいたんですか!?草と石じゃなくて?
しかも妹子、先祖は孝照天皇なんだとか。ってことは、遠いところで太子と血が繋がってたんですね!
さて。次は誰を調べよう・・・?